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沖縄県の古武術の総称である。空手を含める場合もあるが、一般には主に武器術を指す。琉球古武道、沖縄古武道、沖縄古武術ともいう。なお、ほとんどの流派・会派では武器術以外に空手も併伝している。沖縄では、琉球王国時代より各種の武器術が首里・那覇の士族を中心に行われていた。正史『球陽』には、17世紀に「槍棒の法あり」との記述があり、薩摩服属後もこうした武器術が稽古されていたことが分かる[1]。広く知られている俗説の一つとして、琉球には禁武政策により武器がなかったため、徒手空拳の空手(唐手)が発展したとの説があるが、現実には薩摩服属後も琉球士族は武器の所持(鉄砲を除く)を禁じられておらず[2]、こうした武器術は引き続き稽古されていた。実際、当時の空手家は、空手以外にも同時に剣術、槍術、棒術、弓術、釵術等も併せて稽古しており、こうした武器術の名人は何人も知られている。例えば、槍術の西平親方、剣術の具志川親方、弓術の油屋山城等である[3]。また、首里手の松村宗棍のように薩摩に渡って示現流を修業する首里士族もいた。一方、那覇でも久米村士族を中心に独自の武器術が伝承されていた。1867年、尚泰王の冊封のために来琉した冊封使の歓迎祝賀会で、「鉄尺」、「棒」、「藤牌」、「車棒」等の武器術が披露されている。鉄尺は釵、藤牌は盾と手槍を用いたティンベー術、車棒は節棍術と考えられている。また、刀剣類以外にも、ヌンチャクやトンファーなど、非刀剣類の武器術も盛んであった。こうした武器術の歴史は判然としないが、士族の隠し武器(暗器)として発展したと考えられている。なお、庶民的な道具を起源としているが、庶民がこれらの武器術を稽古していたわけではない。あくまでも首里・那覇の士族が中心である。ただし、棒術では糸満村(現・糸満市字糸満)の糸満マギーや添石親方に師事した知念村字志喜屋(現・南城市)の知念志喜屋仲など、平民出身の武人もいた。これらの武器術は、廃藩置県後、空手同様その多くが失伝したと考えられているが、一方で戦前から一部の武道家が保存に乗り出し、幾つかの流派において保存・継承されている。まず、屋比久孟伝が大正初期に琉球古武術研究会を設立し、その弟子の平信賢も1940年(昭和15年)に保存振興会を設立している。戦後の沖縄では、比嘉清徳が中心となって1961年(昭和36年)に古武道保存を目的とする沖縄古武道協会が発足し、多くの古武道家がこれに加わった。
以上引用
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